ステップ数の非常識2.ステップ数で進捗を管理する
SIerの常識:「毎日記述したステップ数を報告してください。」
こんな寝言を真っ昼間から堂々と言ってくれるSIerが多くて辟易します。
プログラムの実装がどれくらい進んだのかとステップ数には何の相関もありません。
プログラマの常識:「ステップ数なんかクソ食らえ、進捗は通過したテストの件数ではかるべき」
ダメな例その1
「■週報でステップ数を報告するときの疑問」(1) Java Solution − @ITより
既存のコードを見直して書き直した結果、
クラスのステップ数が減った場合、
どのように成果を報告をすればよいのか悩んでいます。下の場合、成果として報告できるステップ数は幾らになりますか?
【先週】総ステップ数1000ステップ
【今週】総ステップ数900ステップ(先週比:マイナス100ステップ)上の【今週】ように上長へ成果報告をしたのですが、
結局何ステップ書いたのか分からないと注意を受けたので
削ったステップ数+追加したステップ数を成果ステップ数とすると
今度は総ステップ数との関係の説明が上手くいかず悩んでいるところです。どうかよろしくおねがいします。
この例ではもう上司が答え言っちゃってるんだけど、
SIerの常識にとらわれて気づいてない。
結局何ステップ書いたのか分からない
分からないものをお前は報告させているのかと。小一時間(ry
ダメな例その2
ある開発プロジェクトでの話。
アプリの開発具合を日々報告するのですが、開発した機能と潰したバグの報告に加えて、作成したプログラムのソースの提示が求められてます。ソースを閲覧して、コードレビューしてくれるのかな...と期待してたら、違いました。
どうやら、日々の開発したソースの有効量(コメント以外の実行行)を積算して、有効行数の増加分が日々の成果と判断している様子。
ある日、共通役割を整理して、基底クラスを幾つか作り、派生させる形式に改造したところ、ソースの量が減りました。
有効量が減ったことで、「なぜ減ったのだ。手戻りが発生したのか、プログラム設計ミスなのか....報告せよ」と通達があったそうです。
「 同じ機能なら、ソースの量が少ない方が、品質が高いことが多いし、バグも少ないですよ。良い記述法があれば、短くなりますよ」と説得しても、管理者から「社の方針がそうなので、私では如何ともできない。私見で判断できない。このプロジェクトのソースはは xxxxステップ位で完成するモノと見積もっている。それを元に人員計画している。キロステップ当たりのバグ数とテスト項目数で品質管理している。それなのに、その半分以下のステップで完成されたら、見積能力を疑われてしまう。なんとか量を近づけてくれ」と泣き付かれたらしい。
うーん。オープン化が浸透していると思っていたのに、ステップ管理文化が生きていたとは。(あ! Open化とは因果関係はないか..) OOPだと逆に増えるケースもあるので、一概には少ないのが良いとは言えない面もあるのでずか。
ソフトの品質の判定できる人が少ない現実があるとことか。コードレビュー基準も、オープン系に馴染まない項目も多々あるようですし。大手の業者が、そんな状態だと、業界内の品質格差は広がる一方になります。
将来に不安を感じる出来事でした。
なんだか管理者がカルト宗教に洗脳された信者のように見える。
おおかた、連日の徹夜で朦朧としているところを洗脳されたのだろう。
「教義の方針がそうなので、私では如何ともできない。私見で判断できない。このプロジェクトのソースはは xxxxステップ位で完成するモノと見積もっている。それを元に人員計画している。キロステップ当たりのバグ数とテスト項目数で品質管理している。それなのに、その半分以下のステップで完成されたら、信仰心を疑われてしまう。なんとか量を近づけてくれ」
いまどきステップ数なんか使ってるところはカーゴ・カルトだ。
本質を理解しないまま、表面的な事だけを真似しても正しい結果は得られないんだ。
価値の判断基準
「客に言われたから」、「会社の方針だから」、「前からこのやり方だったから」という人に
「なぜこのやり方が正しいのか説明してください」って質問してみても
まともな答えは返ってこない。
なぜなら、自分でそのやり方が正しいのか間違っているのか考えることを放棄してしまっているから。
これはとても危険な事。
価値の判断基準が自分の中に無い状態なので、
たやすく洗脳されてしまう。
価値の判断基準が自分の外にある人間は表現者になれない? - kettle as crownより
興味深い考察があったので紹介させてもらう。
今は、価値判断基準を個人で持つことを否定する時代。
正確に言うと、「価値判断基準を極大集団で共有しているということに幻想を持つことで自我を守る」ことが当たり前になっている時代。その当たり前に依って自我を保っている人は、無意識のうちに「個人として価値判断基準を持つ」ことを恐れ、またそういうことが出来ている人に対してコンプレックスを持っている。
なので「背骨を持て」と言われても、反射的に、「それが出来れば最初から苦労はない」などに代表されるテンプレートの言葉で反撃してしまう。
そういう時代なのかもしれないが、
モノを作る人間がそれやっちゃダメだろう。